robou55’s diary

http://d.hatena.ne.jp/robou55/ のつづき

一流層を厚くするには3代かかる!?

スポーツの世界を見ていると、オリンピック級の人はだいたい親子で選手が子供の頃からトレーニングを積んでいる。大雑把だが、このような一流レベルに到達するには三世代くらいの積み重ねが行われているように感じる。

初代:がむしゃらに頑張る、あるいは、才能に恵まれていい線いく

二代目:初代からの才能を受け継ぐとともに、初代の反省を受けて適切な基礎訓練を受ける(が、まだ初代の自己流につき、穴がある)

三代目:初代、二代目と受け継がれ、二代目によって無理・無駄・ムラがなくなり、より研ぎ澄まされたトレーニングをつみ、完成度が上がる。

このプロセスをコミュニティーを通じて、コーチ、先輩、後輩の関係で回せるようになると業界そのものが強固な基盤を築けるようになる。

ただし、二代目あたりが初代の呪縛にとらわれると、合理性のない根性トレーニングが引き継がれてしまい、選手を潰す集団いなってしまう。

 

このサイクルは、スポーツだけでなく、大学進学はもちろん、中学受験についてもそろそろ三世代くらい回り始めているのではないかと思う。正直、親が現代レベルの中学受験の経験者だと、ちょっと勝てる気がしない。おそらく、先生自身も中学受験経験者だろう。

そうなると、ちょっと心配なのが問題のクオリティー。中学受験の問題を見ていると、とくに社会や理科の暗記部分は、古き良き昭和の日本を想定している場合が多いように思え、「タガメゲンゴロウも、そうとうな田舎育ちの僕でも見たことないし、松虫とかのこえはどこで聞いたらいいの?」というぐあいで、もはや「受験問題にしか存在しない世界」についての問いが多い。小学校の社会というのは最悪で、よくあるタイプの問題は、「東北の入り組んだ海岸線をなんというか」。答えは「リアス式海岸」なわけだが、リアス式海岸という単語を覚えてもほとんどなんの意味もなく、単なる言葉の言い換えをしているだけ。「リアス式海岸」が生み出す文化や特徴が本来「社会」の問題になるべきだろう。

しかし、問題を作る側と解く側が「受験エキスパート」として先鋭化されていくと、「この問題はなんのためにあるのか? 何を聞きたいのか?」という根本的な部分を考え直さないまま「まあ、受験というのはこういうものなんだよ」といって見直す機会を失ったままになってしまわないだろうか?

大学受験の場合、産業化し、ニュースでも取り上げられるほどの注目度なので、難問・奇問は避けられる傾向が出てくると思うが、なぜか、中学受験は、難問・奇問が当たり前、という風潮があるようにも感じる。中学受験こそ、勉強の本質を見あやまらせるような難問・奇問を廃するように受験産業の監視の目が必要なんじゃないかなぁ。